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中庄村 (岡山県) : ミニ英和和英辞書
中庄村 (岡山県)[なかしょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
岡山県 : [おかやまけん]
 (n) Okayama prefecture (Chuugoku area)
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [けん]
 【名詞】 1. prefecture 

中庄村 (岡山県) ( リダイレクト:中庄 ) : ウィキペディア日本語版
中庄[なかしょう]

中庄(なかしょう)は、岡山県倉敷市倉敷地域にある広域地区(広義の中庄)、およびその地区内の大字(狭義の中庄)である。また、当地にある中庄駅を中心とした駅前市街地の通称としても使用される。
広義の中庄は、旧都窪郡中庄村(なかしょうそん)の区域であり、倉敷市立中庄小学校の学区である。中庄中庄団地(なかしょうだんち)・黒崎(くろさき)〔倉敷市内には、黒崎という地名が2ヶ所かあり、当地の他に玉島にある。住所表記上の大字表記としては、当地が「黒崎」、玉島の方は「玉島黒崎」となる。〕・鳥羽(とば)・徳芳(とくぼう)からなる。
==概要==
倉敷旧市街より東に位置する当地域は帯江丘陵(早島丘陵)とよばれる山塊の北西麓とその北側の平地からなる〔岡山県大百科事典編集委員会『岡山大百科事典』(1979年)山陽新聞社〕。かつて小高い丘陵地の周りに田園地帯が広がる農村であったが、戦後の高度成長期になると岡山と倉敷の間に位置し、交通至便なことから住宅の建設が活発に行われベッドタウンとして発展してきた。
明治22年に都宇郡中庄・黒崎・鳥羽・徳芳の4ヵ村が合併し、中庄村を新設し、役場を中庄に設置した。昭和26年に旧倉敷市へ編入合併し、同市中庄地区となった〔。
元は平野部は豊かな水田地帯で、イグサの生産地帯であった〔。昭和期までは畳表や花莚などのイグサ加工品も多く作られていた。丘陵地ではナシなどの果樹栽培も盛んであった。また、酒造などもかつては行われていた。〔巌津政右衛門『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社〕。
かつて丘陵部には帯江鉱山が存在し、栄えた〔。
近隣地に大学が進出し、また周囲に大型幹線道路が複数造成されたことから、宅地造成が盛んに行われ、人口が大幅に増加、郊外型の店舗などが多数進出している〔。
旧帯江鉱山一帯は、現在は倉敷自動車学校や岡山ゴルフクラブ帯江コースなどとして利用されている〔。
また、瀬戸大橋山陽自動車道の開通により倉敷ジャンクションが中庄地区に隣接する生坂・三田につくられ、倉敷インターチェンジ早島インターチェンジまで近距離という地の利から、近辺には工場や岡山県総合流通センター等の物流施設の開設が相次ぐなど交通の要衝にもなっている。
古代、周辺は吉備の穴海と呼ばれる海であり、この地区は島嶼になっており、同じ島嶼部であった早島町妹尾地域などともに備中国都宇郡撫河郷に属していた(深井郷との説もある)。また大字の鳥羽は鳥羽島、大穴中庄内の小字・中島は中島という小島であった。〔巌津政右衛門『岡山地名事典』日本文教出版社(1974年)〕〔戸板啓四郎『ふるさと中庄を歩く』中庄の歴史を語り継ぐ会(2008年)〕
中世には荘園・万寿庄の一部となった。同荘園の東部を東庄(現在の庄地区あたり)、西部を西庄(現在の・万寿・万寿東地区あたり)と呼び、この地区はその中間にあたるため中庄と呼ばれるようになった。戦国時代に宇喜多秀家が干拓を開始して以降、江戸時代にかけて新田干拓が行われ、陸続きとなった。〔
天平時代からすでに中庄一帯は銅の産地となっており、東大寺の大仏鋳造に「備中国桐木谷」として献上している記録がある。〔
江戸時代、現在の大字中庄は当時、中島村・中田村・別府村・同村枝村の吉田村・辻村・同枝村大寺村に分かれていた。他に鳥羽・徳芳・黒崎は鳥羽村・徳芳村・黒崎村と呼ばれていた。中島村は旗本である戸川氏(中島戸川氏)の戸川知行処、鳥羽村・徳芳村は倉敷支配処、黒崎村は岡山藩の領地であった。〔
明治維新後、1871(明治3)年に中島村・中田村・別府村・吉田村・辻村・大寺村を合併し中庄村として新設。同年、中庄村他前述の諸村は全て生坂藩に移管される。その後、小田県を経て岡山県の管轄となる。〔
明治時代に中庄・黒崎一帯は三菱合資会社により開発された帯江鉱山(帯江銅山)によって繁栄し、大寺地区を中心に賑わいを見せた時代があった。大正8年にいったん閉山後、太平洋戦争中に一時再開されたが昭和24年に完全に閉山した。〔昭和の高度成長期に周辺に多くの住宅団地が建てられベッドタウンに姿を変えていった。現在、銅山の跡はゴルフ場や自動車学校になっているが、農協の裏山には坑道の跡がわずかに残っている。
生坂藩時代には、同藩の農兵訓練所が設置されている。その後、軍事演習所に形を変え、大砲が並ぶなどした時期があった。また明治と昭和の2度にわたり、陸軍の特別大演習が行われ、小規模演習はたびたび行われていた。昭和20年には中庄小学校に兵舎が置かれ、中庄一帯は演習基地と化した。〔
昭和30年代に入ると、高度経済成長期に突入、中庄地区内に昭和36年に岡山県営団地、翌年に市営団地が造成される。昭和39年に新たな大字として「中庄団地」が新設された。また、水島川崎製鉄水島製鉄所(現・JFEスチール西日本製鉄所倉敷地区)の社宅もできる(現在は撤去)など、人口が激増した。〔
平成に入り、中庄団地は「クリエイティブタウン岡山」〔岡田新一がコミッショナーをつとめる団体。〕の主導による、景観に配慮したお洒落で個性的な街作りをコンセプトにした新たな街作りに取り組んでいる。老朽化した公営団地の一部が斬新なデザインに建て替えられるなどした。〔
また、近年中庄西部・中庄団地周辺では大型幹線道路が南北に整備されており、交通量が増加。隣接の福島地区などとともに住宅地やロードサイド店舗が増加している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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